



短くとも太く、人々の心の中に残る生き方をした人は、すばらしいと思います。
そして、人のために尽力を尽くし、人に勇気や希望を与えることができた人は、本当の意味で
「生きた」
のではないでしょうか?
残されたものは、悲しくて、寂しくて、とても辛いけれど、彼の思いを・・・夢を・・・、きちんと受け継いでいかなければいけないのではないかと思います。
奈良歴史ミステリーハンターの鈴木尚さんの急死
今日、とても悲しい訃報がありました。
源九郎稲荷神社のホームページを作成・運営してくださっている
が、2012年2月12日に若くしてお亡くなりにまりました。
私は、今日の昼間にご家族の方からメールが送られきたのを見て、この悲しい出来事を知りました。
最初、頭が真っ白で、本来ならすぐにでも中川さんご夫婦にお知らせしなければいけないのに、自分の心が整理できず、すぐには神社へと行くことができませんでした。
午後1時30分頃、大黒行者さんから電話をもらい、その後中川のおばちゃんから電話をもらって、やっと平常心を取り戻すことができました。
夕方、神社へ足を運び、中川のおじちゃんとおばちゃんと、鈴木さんのことを延々と話しました。
鈴木さんと出会ってから、そして最後に顔を会わせた日のことまで、私達の脳裏にはまだ鮮明に鈴木さんの笑顔が残っています。

3人とも、口から出る言葉は同じでした。
鈴木さんは、私達にとって、源九郎稲荷神社復興活動メンバーの中心人物でした。
彼との出会いがなければ、ここまで源九郎稲荷神社が復興することはなかったと思います。
私が鈴木さんと出会ったのは、昨年の2011年6月
源九郎稲荷神社の復興活動をしていた私は、

と考えていました。
そんなとき、インターネットで鈴木さんのブログを見つけました。
なぜかわかりませんが、鈴木さんのブログを読んで、

とピンときました。
文面からとても優しい人柄が滲み出ていたこととに加え、源九郎さんが

と言っているように思えてしかたなかったのです。
私は、迷わず鈴木さんのブログにメールを送りました。
そのことは、後に鈴木さんが自分のブログで書いてくださっています。
源九郎トヨは、源九郎稲荷神社の現状を包み隠さず伝えました。
すると、数日して鈴木さんから返信がありました。
そのとき鈴木さんは仕事で長期出張で広島にいたのですが、次の休みに奈良に帰省した折に神社に寄せていただきますと言ってくださいました。
そして、6月10日、鈴木さんが神社に来てくださいました。
鈴木さんはこんな心優しい人でした
私と中川さんご夫婦の3人と鈴木さんとの初めての出会いでした。
鈴木さんは、私が思っていた通り、とても穏やかで控えめで思慮深い方でした。

と言っていましたが、とても聞き上手な方で、私達の思いを一言一言受け止めてくれました。
そして・・・・

私はデザインは苦手なので素敵なホームページを作ることはできませんが、情報を発信できる程度のホームページなら作れますので、私に任せてくれませんか
そう言って、無料でホームページを作ってくださいました。
更に、自分のブログにも、私達の復興活動を載せてくださいました。
異聞 源九郎稲荷神社
「1.はじまりは、とよさんでした。 」
「2.大和郡山の町中に響く法螺貝の声 」
「3.闇の中からいずるものたち 」
「4.ひろがるキセキ。 還るべきところ 」
「5.源九郎さんのヒミツ 」
鈴木さんのホームページは、とても読者数が多く、ブログランキングでも1位を獲得するなどしていたので、彼のブログに神社のことを載せていただいたお陰で、多くの方が神社を訪れてくれるようになりました。
そして、鈴木さんは

今までの復興活動をありのままに書いてください
と薦められたことにより、アメブロにおいてブログを書きだしたのです。
そのブログは、今でも存在しており、
「源九郎トヨの現黒稲荷神社復興物語 そして・・バンコク奮闘記」
というタイトルで、このホームページにアップした内容や、源九郎トヨのバンコクでの奮闘状況などを綴っています。
このアメブロを始めた当初、
「あんたのブログの存在意義がわからない」
「前の誰も来なかった神社の方が静かでよかったのに余計なことをしてくれた」
などの中傷や誹謗に遭い、ブログを書くのが嫌になったときもありました。
そんな時も

と鈴木さんに励まされ、書き続けました。
鈴木さんのブログの読者の方も、たくさん私のブログを呼んでくださり、遠くからわざわざ神社を訪れてくれました。
今では、
「とよさんのブログを読んで来ました」
と言って訪れてくださる方もおられ、ブログを書いてよかったなとつくづく思っています。
その後も、鈴木さんとの交流は深まり、旧川本邸の祈祷に一緒に参加していただいたり、都祁村の畑にお誘いを受けて野菜の収穫をさせていただいたり、洞泉寺町の夕涼み会には子供さんたちと参加してくださったりと楽しい時間を一緒に過ごしました。
この写真は、鈴木さん一家と一緒に、奈良の田舎のファームに野菜を収穫しにつれて行ってもらったときのものです。
めちゃくちゃ楽しかったな~
鈴木さんと最後に会ったのは・・・・
鈴木さんと出会ってから、源九郎稲荷神社は、一気にメジャーデビューを果たすことができたのです。
そんな鈴木さんに異変が現れたと、私達が感じたのが
2012年の12月31日大晦日
のことでした。
奥さんとお二人で神社に挨拶に来てくださった鈴木さんは、とても痩せていて、その変貌ぶりにびっくりしました。
どこか体に異変があるのではないかと、直接聞きましたが、

と言うだけで、心配をかけまいとする鈴木さんの人柄が、かえって私達に不安を持たせました。
その後、鈴木さんととても親しくしておられる方に連絡をとり、二人で病院に行くように薦めたりしましたが、結局最後まで鈴木さんの口からは病状のことを聞かせてもらうことができませんでした。
最後まで人に心配をかけまいとする。
それが鈴木さんという人だったのでしょうね。
共通の知人から、最後までボランティアで関わっていた村おこしでトラブルが生じていることに心を痛めていたと聞きました。
その件での話会いのときも、かなり具合が悪そうだったのに、無理して参加されていたそうです。
それが鈴木さんのなのです。
人のために一生懸命に動く人・・・・。
すごく短いおつきあいでしたが、私も中川さんご夫婦も鈴木さんと出会えたことを、源九郎さんに心から感謝しています。

でも、人の寿命はきっと決まっているのだと思います。
鈴木さんの40年という決められた寿命の中で、源九郎さんは彼の最後の1年を必要とし、呼び寄せたのだと思います。
鈴木さんの功績は、私達の中で永遠に生き続けます。きっときっと鈴木さんは、まだまだいっぱいやりたいことがあったと思います。
そんな鈴木さんの思いを、私達残されたものは受け継いでいかないといけないのだと思います。
私達の心の中には、これからも常に鈴木さんの存在は消え去ることはありません。
一緒に、共に歩んでいくことには間違いありません。
私達が鈴木さんのことを思い出せば、常に天国からやってきてくれる・・・
私はそう思っています。
とても、心に染みる内容でした。
今日はなんとも悲しい訃報が入った。
ホームページの作成など、源九郎さんの発信基地として尽力くださっていた復興仲間の訃報。
源九郎さん以外でお会いする機会はなかったが、仲間の訃報はとても悲しいもの。
せめて白い蓮華を作ってお供えにできればと、作ってみた。
この白蓮華にのって有縁の浄土にと。
ご冥福をお祈り申し上げます。
『ナム サ ダルマ フンダリキャ ソタラン』『オン アボキャ ベイロシャノウ マカ ボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン』
白い蓮華に乗った鈴木さんの姿が見えたような気がしました。
『ナム サ ダルマ フンダリキャ ソタラン』『オン アボキャ ベイロシャノウ マカ ボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン』
白い蓮華に乗って旅に出られた鈴木さん・・・
鈴木さんから

そう言われたこと・・・・
それが、私の役割だとしたら・・・鈴木さんが紹介したかった奈良の歴史・・・
もっと勉強して、いつか書けるようになりますね。そして、鈴木さんが書きたかった「遊郭」のこと・・・・それも、もっと勉強していつか書けるようになりますね。
そして、鈴木さんの追悼イベントとして、これからも夕涼み会も必ず成功させますから、お祭りの時は必ず天国から降りてきて見てくださいよ!
姿は見えなくなったけれど、鈴木さんは私達の心の中に永遠に生き続けます。
ありがとう
源九郎稲荷神社復興活動に続く「源九郎とよのバンコクス経営奮闘記」

それまで勤めていた警察を辞めて、タイ、バンコクで新たな挑戦を始めることになったのです。とよが源九郎稲荷神社復興活動チームから離れて、警察同期生だった親友の助けを得ながら異国タイで奮闘するハチャメチャな様子を綴った物語が「元女性警察官(刑事)コンピがバンコクでスパ経営物語」です。
なんとか成功してお金を貯めて源九郎稲荷神社の社務所を建て替えるのがとよの夢なのですが、新型コロナウィルスのパンデミックもあり、なかなかすんなりとはいかない状態です。
でも、夢をあきらめずにやれるところまで頑張ってみたいと思います。ご興味のある方は、そんな源九郎とよの奮闘状況をご覧ください。
元女性警察官(刑事)コンビのバンコクスパ経営物語