古事記では、天地開闢の際に、高天原に最初に出現した神としてしているのが、天御中主神(アメノミナカヌシ)です。
前回の記事はこちら↓
私(源九郎とよ)は、古事記の中ではたくさん好きな神様がいます。
好きな神様の中でもこの神様はすごすぎるでして、私ごときが好きと言うのも失礼にあたる程の神様なのですが、今回は、少し古事記の解説からはずれるのですが、アメノミナカヌシについてご紹介したいと思います。
まず、この神様のお名前である
天御中主神(あまのみなかぬしのかみ)
について、説明します。
「天」というのは、宇宙(高天原)のことをいいます。
「御中」は、真ん中という意味
「主」は支配するという意味
つまり、文字通り、
宇宙の中心に在って、時間的にも空間的にも無限な宇宙そのものを体言する、
宇宙の根源神(高天原の神聖な中央に君臨する主君)という性格をもつ
宇宙で一番偉い神様なのです。
ところが・・・・
この高天原の最高神は、古事記では天地開闢のときに「最初に現れた神」として記された後は、その後一切登場しないのです。
古事記に描かれた日本神話のほとんどが、「生活にかかわる神様達で、とても身近な神様」であることに比べて、アメノミナカヌシ神は「生活に直接かかわる神様ではない」ということで、長らく信仰の対象とはされていませんでした。
10世紀に編纂された「延喜式(えんぎしき)」の「神名帳(しんめいちょう)」を見る限り、この神様を主祭神とする古社は存在しないのです。
また、この神の後裔を名乗る氏族もないという不思議な神であり、重要な神でありながら中心から身を引いた神といえるのです。
「延喜式」とは、古代の百科事典のようなものです。
現代でいう法律や規則を集大成したようなもので、朝廷運営マニュアルといわれています。
内容が詳細で具体的なため、 古代史の研究に不可欠の文献であり、そのなかの神名帳には全国の神社のことが具体的に記載されいます。
しかし・・・
日本神話に描かれた神様というのは、時代とともにその形を変化させます。
このアメノミナカヌシも同様で、アメノミナカヌシという名前では登場してこないものの、近世以降、仏教と習合してとても有名な仏様になります。
一度は耳にしたことがあると思いますが、そう
妙見菩薩
となり
「妙見さん」
と呼ばれて、広く庶民に親しまれるようになるのです。
源九郎とよが、前職で働いていた奈良県の斑鳩町では、世界遺産には指定されはいませんが、
法輪寺
という、とてもすばらしいお寺があります。
そこには秘仏とされている
妙見菩薩立像
があり、4月15日にのみ御開帳されます。
源九郎とよは、12年程前に、初めてこの秘仏の妙見菩薩立像とお会いすることができましたが、とてもすばらし仏様でした。
秘仏のため写真は撮影できなかったため、ブログにアップすることはできないのが残念ですが、源九郎とよが、生まれた初めてみた妙見菩薩様がこの法輪寺の仏様になります。
その美しさに心を奪われ、妙見菩薩のことをネットで調べたところ、この仏様が、古事記に登場する
「天地開闢の際に、最初に現れた偉大な神様であるアメノミナカヌシノカミ」と同一神である
ことがわかったのです。
多くの神様が、時代と共にその表情を変えます。
その変化の歴史が、とてもおもしろいなと思います。
妙見さんとなったアメノミナカヌシも、妙見菩薩信仰という庶民信仰へと姿を変えて行きます。
妙見菩薩信仰とは、一般的知られているのは
北辰妙見菩薩(ほくしんみょうけんぼさつ)
に対する信仰を言います。
でも、始まりは中国の「道教」における
北極星・北斗七星
に対する信仰になるのです。
そして、北極星・北斗七星を神格化したものが、
鎮宅霊符神(チンタクレイフシン)
であり、それが仏教に入って
北辰妙見菩薩
と変じ、神道では天御中主神(アメノミナカヌシ)と習合した
と言われています。
鎮宅霊符神(チンタクレイフシン):道教
↓
北辰妙見菩薩;仏教
↓
天御中主神(アメノミナカヌシ);神道
という変化を覚えておいてくださいね。
北辰妙見菩薩信仰は、4世紀の中国(西晋代:せいしん)で作られました。
北の空(天)にあって動かない北極星(北辰ともいう)を、宇宙の全てを支配する最高神・天帝(太一神ともいう)
として崇めました。
そして、その傍らにある天帝の乗り物ともされる北斗七星は、
天帝からの委託を受けて人々の行状を監視し、その生死禍福を支配する
とされたのです。
そこから、
北辰・北斗に祈れば百邪を除き、災厄を免れ、福がもたらされ、長生きできる
との信仰が生まれ、
その半面、悪行があれば寿命が縮められ、死後も地獄の責め苦から免れない
ともされました。
そして、この北極星・北斗七星を
鎮宅霊符神(チンタクレイフシン)
として神格化しました。
鎮宅霊符神(チンタクレイフシン)の霊符は、「お守り」や「お札」の原点になります。
(まとめ)
アメノミナカヌシは、最初、民衆の生活にあまりなじみのない神様であるため、それほど信仰されておりませんでした。
しかし、宇宙の最高神であるという性格が、道教の星辰信仰や仏教の妙見信仰と重なり、
道教の北辰・北斗を神格化した神様である鎮宅霊符神(チンタクレイフシン)
仏教の北極星の仏様である妙見菩薩(ミョウケンボサツ)
と習合して民衆の間でとても信仰されることになるのです。
さて・・・では、この北辰・北斗が日本に伝わったのはいつの頃でしょうか?
一説には推古天皇の頃と言われていますが、あまり正確なところはわかっていないそうです。
バビロニアで始まり、インド・中国を経て、仏教とともに日本に伝来したとも言われています。
奈良・明日香の高松塚古墳の
天井に北斗七星が、
北壁に北斗の象徴である玄武像(ゲンブ、亀と蛇とがかみついた像)
が描かれているのはご存知でしょうか?
高松塚古墳が作られたのは7世紀末から8世紀の藤原京期になるので、その頃にはすでに渡来系の豪族により日本に持ち込まれていたのは、間違いないようです。(だだし、中国文化を受け入れる前の日本では、星を祭る信仰はみられない)
そして、平安時代には、宮廷の陰陽師の手で広められました。
陰陽師では、
「妙見は人々に長寿をもたらすとする」とされ、「北方の守り神である玄武の上に乗った妙見菩薩」や「北斗七星を描いた護符」を配ったそうです。
さて、北辰・北斗を神格化した
鎮宅霊符神(チンタクレイフシン)
ですが、最近は人々の願望を叶えるオフダ、「霊符」を司る神様として、密かにブームになっているそうです。
鎮宅霊符の霊符とは一種の護符で、ご利益の種類に応じて多くの霊符があるそうで、わが国でいう「お札」「お守り」の原点ともいえますね。
この霊符には、こんな伝承があります。
漢の頃、貧しくて病難災厄が続いていたある一家に、ある日二人の童子が訪れて鎮宅霊符を授け、
「これを朝夕礼拝祈念すれば、10年にして家おおいに富み、20年にして子孫繁栄、30年にして天子がその家を訪れるであろう」
と告げた。奇しきことと思いながらも礼拝していたら、お告げの通り天子が訪れてくるまでに富み栄えた。その家を訪れた天子は、その話を聞き、この霊符の霊験あらたかなことに驚き、自らも信奉し且つ天下に弘めさせた
ということで、数ある霊符のなかで最も強力な力を持つ霊符として広く信仰されたそうです。
『鎮宅霊符縁起集説』(宝永五(1709)年出版)には、
「鎮宅霊符神」は仏教では妙見菩薩、神道では国常立命(日本書紀で最初に現れた神とされている)、或いは天御中主神と同一とされる
と記されています。
こうして陰陽師の手によって広められた北辰・北斗信仰の最高神「鎮宅霊符神(チンタクレイフシン)」は、
「天の中心の至高神」
という性格から、鎌倉以降に
天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)
と習合していきます。
特に江戸時代になると、記紀神話の再解釈や神道思想の高揚とともに、天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)を
「天地創造の主宰神・世界を創造し支配する最高神」
とする思想が生まれました。
そして、室町時代以降から日蓮宗において盛んになってきていた妙見信仰と習合し、仏教の菩薩の称号を与えられ妙見菩薩となったのです。
天御中主神がこのような過程で北辰・北斗信仰や妙見信仰と結びついたのは、
記紀神話には、何らの記載も注釈もない神様
であるため
後世の神格形成に際して自由度が高かった
からともいわれています。(キリスト教におけるマリア信仰と同じ)
いま鎮宅霊符神を表に出して祀っている社寺は少なく、妙見菩薩を主尊とする寺院と天御中主神を主祭神とする神社に分かれています。これは明治初年の神仏分離によって、鎮宅霊符神が邪神として排除されたためだそうです。
私が日本にいたときによく訪れた
ならまちの鎮宅霊符神社
もやはり祭神は天御中主神です。
この神社は、狛犬がともて愛嬌があって可愛いのですが、なぜか私が訪れると、かならずどこからともなく犬ではなく猫がやってきてまとわりつきますのが不思議でした。
★ 鎮宅霊符神社
住所 奈良市陰陽町(いんようちょう)
社殿 古史書・元要記(鎌倉時代)によれば、『鳥羽院の御宇、永久2年(1117)正月、興福寺に行疫神(コウエキシン、疫病神)の社壇が建立され、南都四家の陰陽師(オンミョウシ)がこれを祀った』
当社本殿背後に
『北辰鎮宅霊符尊星・抱卦童子爾卦童郎・主命主宰九宮尊星』
と並記する小祠があり、かつては神道・仏教・陰陽道などが習合した社であったことを示唆している。