宮下文書は、神武天皇より前の時代に存在した「富士王朝」の歴史を記した古代文献になります。
この富士王朝の歴史を知った、渡来人である徐福が感銘を受けて一族総出で完成させたのが「富士文献=宮下文書」になります。
宮下文書は、綺麗にまとめられたストーリーではなく、多種多様で膨大なテキストとして残されており、明治16年に富士山麓の神社で代々宮司を務めていた宮下家によって公開されました。
この膨大な「宮下文書」をまとめて1つにしたのが、三輪義熈が著した「神皇紀」という、いわば宮下文書のダイジェスト版の書物が発行されています。
そして、正統竹内文書を伝える73世武内宿禰である故竹内睦泰さんは、
8代目孝元天皇が正史を造るように命じ
第一世武内宿禰が、宮下文書の筆録の監修を行った
とおっしゃられていました。
実際に、宮下文書には竹内宿禰の系譜が明記されており、
徐福の船が紀州に到着した時に、案内役をしたのが竹内宿禰だった
という伝承とも繋がってきます。
また系譜上では、
第53代竹内宿禰の名前は時能(畑時能)といい、新田義貞に仕えたこと、
第55代竹内宿禰は名前を正宗といい、楠木正行(まさつら)に仕えたこと
などが記載されています。
このあたりの真相はどうなのか?
その点についてはわからないので、今後、参考になる報告や考察などが出てくれば、またご紹介したいと思っております。
そこで、まずは宮下文書文書がどのような内容の文献であるかをご紹介していきたいと思います。
宮下文書には、「記紀」や「海外の神話」のように、この世界がどのようにして作られたのか?
という「創成神話」は存在しません。
記紀や海外の神話だと、まず原始の神が現れて、天と地をわけて世界を作ったことが描かれています。
記紀でも、次々に現れる神様の名前から、世界が作られていく様子がわかります。
ところが、宮下文書は最初からいきなり大陸があって、その大陸に神様も人も住んでいるというシーンから始まります。
宮下文書の冒頭は、「天之世七代(あまのよななだい)」から描かれます。
「天之世七代(あまのよななだい)」の神々は、今で言うユーラシア大陸の中央部で暮らしていました。
なんと!! 日本じゃないんです!
そして、そこにはすでに人間も存在しており、
東陽、南陽、北陽、西陽 といった四種類の人種がいました。
〇 東陽の人
肌は赤っぽい、身長は中くらいで寿命は500歳くらい
〇 南陽の人
肌は黒色、身長は低め、寿命は100歳位で短命
〇 西陽の人
肌は白色、身長は中くらいで寿命は250歳くらい
〇 北陽の人
肌は青白い、身長は高い、寿命は1000歳くらいで長命
だと伝えられています。
宮下文書では、
4色人が人類のそれぞれの始祖
になっていると記されています。
ここで、みなさん何か気が付きませんか?
赤、黒、白、青色の肌の色の人種が記されていますが、私達、日本人の黄色の人種が出てきません。
5色人の面が奉納されていることで有名な
九州の幣立神宮
の5色人の考え方だと
黄色の肌の人種が最も位が高い
とされていました。
なのに、宮下文書では、黄色人種は出てこないのです。
さらに、宮下文書の冒頭では、この4色の人種が
火を使ったり、衣服を作ったりして、文明を築いていった
と記されているんです。
天之世七代の神々の一代目が
天峰火夫神(アメノホホオノカミ)
という男神と
天峰火母神(アメノホホモノカミ)
という女神になります。
記紀の冒頭シーンでは、ひたすら独り神の登場シーンが続きますよね。
ところが、宮下文書文書ではいきなり男女ペアで登場します。
そして、この神々と共に、4種の人類が暮らしていました。
二代目は、
天高火男神(アメノタカホオノカミ)と天高火女神(アメノタカホメノカミ)
三代目は
天高地火神(アメノタカチホノカミ)と天高千火女神(アメノタカチホメノカミ)
一代目は、峰という字が入っておりますが、これは山の頂きのこと
を表しています。
つまり、山の頂から火が出ている様子を表しているのです。
二代目は、高いところから火が出ていること
を表し
三代目は、火が大地に落ちている
様子を表している名前になり
一代目から三代目までの神様で
山の頂から火が出て、それの火が高いところに打ち上がり、その火が大地に落ちるところ
までを表しているということは、冒頭の神々の名前で火山の大噴火を表現していることになるんです。
そして、噴火の後に木が生えて、草が生えて、高原ができて、そこに社を作ったことが、神々の名前から推測できます。
つまり、天之世七代の神々の名前で、火山の大噴火の被害に遭い、大移動した人たちのことを表現しているのではないかと言われているのです。
そして、天之世七代の人は、須弥仙山(須弥山のこと)と呼ばれる高い山に住んでいて
4種の人種は、4つの州に分かれて暮らしていました。
須弥山とは古代インドの世界観の中で、地球の中心にそびえる大きな山と伝えられていて、
中国、日本、インドネシア等にその伝説が広がって行きました。
須弥山はサンスクリット語で、「スメール」と発音します。
ということで、物語の前に大規模な噴火が起こり、その後天須弥山と呼ばれる場所に移動してきた民族が、天之世七代の神々であると推測されます。
そして、天之世七代の時代が終わると、
天之御中世(アメノミナカヨ)
火高見(ホタカミ)
の時代が、その後15代に渡って続いていきます。
天之御中世(アメノミナカヨ)といえば、古事記の一番最初に登場する原始の神アメノミナカヌシを想像しますよね~
ここから、古事記、日本書紀に登場する神様が現れ始めます。
天之御中世の時代になってからの、一代目の神様がアメノミナカヌシになります。
一代前の神様方なのですが、男女ペアで登場しておりましたが
アメノミナカヌシは男性神の独り神として描かれています。
記紀では、アメノミナカヌシは、宇宙そのものである原始の神であり、性別のない神とされていましたよね。
そして、男神であるアメノミナカヌシの対の神となる女性神が
天之御中比女神(アメノミナカヒメノカミ)になります。
つまり、宮下文書ではアメノミナカヌシの女性神バージョンが登場するわけなんです。
また、宮下文書に出てくるアメノミナカヌシは、須弥山で人間と共に暮らしていたことから、神というようり王様的な存在だったのではないかと言われています。
そして、その後、天之御中世の一族達は、須弥山を離れて、中国の北京のあたりに辿り着き、そこに「震旦(しんたん)」という国を造りました。
なぜ、天之御中世の時代に中国に移動したのかはわからないのですが、この震旦という国において、15代の神々の時代が続いていき、最後の15代目の神である高皇産霊神(タカミムスビ)の代で、時代が大きく動き始めるのです。
タカミムスビは、記紀においてはアメノミナカヌシに続いて現れる「造化三神」という、ものすごく偉い神様として登場しますよね。
https://genkurou-inarijinjya.net/7248/
ところが、宮下文書に出てくるタカミムスビは、天之御中世の最後の神様として登場し
別名を
天之神農氏神(アメノシンノウシノカミ)
と言います。
天之神農氏神の名前の中に含まれる「神農」というのは
古代中国における伝説の帝王「神農」
と同じ名前になります。
神農は、古代中国の伝承に登場する「三皇五帝」の一人であり、
蛇の姿でえがかれる「伏義(ふくぎ)」
人類を想像した女神「女媧(じょか)」
と並ぶ存在として伝えられています。
この神農が、タカミムスビと同じ神様だと、宮下文書では伝えられているのです。
神農は、今から4~5000年前の神様だといわれており、相当昔に存在した神様になります。
ということは、天之御中世の15代目の神であるタカミムスビの時代が、4~5000年前だということになります。
タカミムスビは、医療や農業を伝えた神、五穀豊穣の神とも言われているのでうが、見た目がすごい神様だとも伝えられています。
どのような見た目かといいますと・・・
まず牛のような角をはやし、内臓や脳みそが丸見えだったそうです。
このタカミムスビは、ある日、息子たちに
「東の海を渡り、蓬莱という場所で新たに国を造りなさい」
と言いました。
そして、父親の命を受けて、まず東に向かったのが、五男の国常立尊(クニトコタチノミコト)でした。
クニトコタチノミコトは、数100人の眷属を連れて、東の海に向かったのですが一向に帰ってきませんでした。
次に、七男である国佐槌尊(クニサヅチノミコト)が、東の海を渡ります。
命がけの航海の後、日本に辿り着きましたが、蓬莱山が見つかりません。
上陸してから、様々な地域を回りましたが、蓬莱山は見つからず途方に暮れていたところ
案内人が現れ、導かれる形で蓬莱山に辿りつきました。
この案内人というのが、正統竹内文書では、第一世武内宿禰だとされているのです。
クニサヅチノミコトは、蓬莱山を見てその偉大さと美しさに感動し、
このような山は2つとない
ということから「不二山」と名付けました。
ただ、この蓬莱山が、現代の富士山を表しているかどうかはわからないのです。
飛騨山脈の活火山のことを表しているとされ、長野県と岐阜県にまたがる、「焼岳」のことだという説もあります。
正統竹内文書で伝えられている
「神々はまず飛騨の山に降り立った」
という伝承とも繋がってきます。
さて、では最初に日本を目指したクニトコタチノミコトは、どうなったのでしょうか?
宮下文書では、日本に辿り着いたものの先住民の攻撃に合い、淡路島に陣取っていたことがわかったと記されています。
記紀では、イザナミが最初に生むのが「淡路島」でしたよね。
宮下文書では、最初に降り立った神が、最初に陣取った場所が「淡路島」となっているのです。
そして、クニタチノミコトも、なんとか富士山に辿り着き、弟のクニサヅチノミコトと合流することができました。
そして、二人で国を統治していくことを約束し、富士山の周囲に広がる一帯を「高天原」と名付けました。
記紀では、高天原は天界のことでしたが、宮下文書では、富士山の周囲に広がる一帯を高天原と名付けたと記されているんです。
さて、こうして国造りがスタートするかとおもいきや、兄のクニトコタチノミコトが、
「家族も家来も淡路島に置いてきたので淡路島に戻ることにする。
富士山から西は俺が統治するから、お前は東側を統治してくれ」
と弟のクニサヅチに告げて、淡路島へと帰って行きました。
そんなことから、
富士山から西はクニトコタチが統治し
富士山から東はクサヅチノミコトが統治する
ことになったわけなんです。
その後、この二柱の神々からはたくさんの子供達が生まれました。
そしてなんと!!
クニサヅチノミコトの5番目の子供がイザナギになるんです
イザナギはクニサヅチノミコトの息子になるのですから、西日本出身ということになります。
その後イザナギは、西を統治しているクニトコタチの元へ行き、クニトコタチについて活躍したと言われています。
当時、クニトコタチが統治していた西日本というのは、現在の石川県に当たる場所を指し「阿祖北地方」と言いました。
また、クニトコタチは京都の舞鶴辺りに住んでいたようです。