古代史を代表とする「古事記」「日本書紀」の登場する場所は、
出雲、日向、大和、諏訪・・・等であり、なぜか日本を代表する「富士山」が登場しません。
古代には富士山は存在しなかったの?
そんなことはありません。
富士山は、地質学的には今から10~20年万年前にできたとされています。
人類の誕生が30万年前だと推測されているので、富士山が誕生した頃に人類はいたのかもしれませんが、
縄文時代が、今から1万5000年前のことになるので、果たして日本列島に人類がいたかどうかは定かではありません。
では、古代には富士山の周辺に文明は誕生していないのでしょうか?
いえいえ、「幻の富士王朝」として、富士山周辺に王朝があったことが伝えられている文献があるんです!!
それが、「宮下文書」です。
別名「富士文献」とも言われています。
この文献は、古代に富士山周辺で栄えていた「富士王朝」についてまとめた文献だとされています。
記紀は、基本的には西日本を中心に展開されていますし、東日本は蝦夷が住む野蛮な土地だと描かれています。
けれど、古代の人の目にあれほど大きくて美しい富士山が目に入らないはずはありませんし、精霊信仰やアミニズム的な性格を持つ日本の古代人達の中で、「富士山信仰」が芽生えないこと自体おかしいのです。
記紀が一切富士山のことを描かなかったのは?
敢えて描かなかったという意図を感じます。
では、記紀では描かれなかった富士山周辺に栄えた王朝のことを記した「宮下文書」は、いったい誰が作ったのでしょうか?
実は、宮下文書を作ったのは、「除福」だと言われています。
「除福」というのは、秦から日本を目指したと言われる伝説の人物のことです。
日本人ではない徐福が、なぜ日本の歴史をまとめたのでしょうか?
ということで、これから宮下文書のことをご紹介していく上で、まず「除福」について簡単にご紹介しておきますね。
秦の圧迫から逃れて、日本を目指した徐福の一団は、中国の歴史書「史記」によると、除福は「方士(ほうし)」と呼ばれていました。
方士は今でいう所の「まじないし」のような存在であり、「不老不死」や「霊薬」に関する専門的な職業でした。
秦の始皇帝は、自分が死ぬことを恐れて、なんとか不老長寿になれる方法はないか?と探し続けていました。
そんな中で、方士であった徐福が立候補して
「東の海には3つの神山がございます。
その名を蓬莱、方丈、瀛州(えいしゅう)と言い
そこには素晴らしい仙人が住んでおります。
我々は、陛下の不老長寿のために、まだ穢れていない少年少女と共に神山に行って仙人に会い、霊薬をもらってまいります」
と言って、数千人の供を連れて、始皇帝から多くの財産をもらい、東海の彼方になる霊山を徐福は目指しました。
これが紀元前220年頃のことになります。
一説では、
除福は始皇帝の圧迫から逃れるために、東海の地に自分の理想郷を求めて旅に出たのではないかと言われています。
「徐福来紀」という書物では、その理由として
・危険な旅なのに、除福は自分の家族も連れて行った
・様々な技術を持った専門家軍団、少年少女500人等、移民を想定したような数の供を連れて行った
・乗組員の家族も一緒に連れて行った
といったことが伝えられています。
この後の徐福の詳細は不明で、そもそも日本を目指したのかどうかもわからないのです。
ただ、この除福の一団が「秦氏」になったのではないか? 等とも言われています。
日本各地には、除福の伝説がかなり残っているのですが、それは、この「除福来紀」に記された伝説が元になっていると考えられています。
そして、これからお伝えする「宮下文書」には、その後の徐福一団の行方がはっきりと記されているのです。
では、宮下文書に記された「除福一団」のその後についても、簡単にご紹介したいと思います。
なんとか日本にやってきた徐福一団ですが。なかなか蓬莱山らしき山を見つけることができません。
何回も出航と上陸を繰り返し続けていました。
日本に上陸してから3年が経ちました。
除福の一団はやっと蓬莱山を見つけ、麓に広がる富士王朝と首都「家基都(かきと)」の存在を知りました。
そして、なんと富士王朝は除福の一団を優しく迎え入れました。
その後、除福の一団は、富士王朝の様々な場所に分かれて定住するようになりました。
そこで、除福達は大陸からの文化を富士王朝に伝えたことから、様々な技術革新が起こりました。
例えば
・蚕を使った養蚕業で絹織物を作る技術
・新しい農業の技術
・鍛冶や石工の技術
等を伝えました。
そのため、その噂を嗅ぎつけた人々が、富士王朝以外の場所からもやってきて色んなことを学んだということも記されているのです。
当時、一番大きな神社だった「阿祖山太神宮」に、除福が滞在していた時に、ある人物が彼のものとを訪れました。
その人物が、なんと!!
正統竹内文書の「武内宿禰」だったと伝えられているんです!!
武内宿禰は、大陸から持ってきた徐福の知識の深さや技術に感銘を受けて「除福学」を学んだとされています。
さらに、武内宿禰は除福を尊敬するがあまりに、息子の「矢代宿禰」の名前を、除福の姓である「秦」からとって、「羽田矢代宿禰」に改名されるほど、入れ込んでいたそうです。
こうして、富士王朝で暮らしていた徐福ですが、そんな彼に転機が訪れます。
ある時、様々なことを教えていた徐福の元に、富士王朝の神官たちがやって来て、
古代から富士に伝わる歴史
を徐福に伝え始めたのです。
当時、富士王朝で文字を扱うことができたのは、36の神官の家だけでした。
彼らは、富士王朝の首都である「家基都」に住んでおり、神社に勤務しながら、国内の主な出来事を特殊な文字で記録してまとめていたとされています。
つまり、神官たちは、この記録を徐福に伝えたわけなんです。
この話を聞いた徐福はとても感動して、
「これは後世に残すべきだ」
と言って、当時、富士王朝に住んでいた神官の家の全ての記録をまとめることを提案したのです。
そんなことから、神官たちもその提案を承諾しました。
そして、除福が大陸から伝えた製紙の技術と、漢字の知識を使い、木片とか竹片で作った筆に原始的な墨汁をつけて、神官たちが言ったこと全てを漢字で記したそうです。
それが宮下文書だと言われています。
そんな経緯があったことから、「宮下文書」の作成者は徐福であると言われているわけなんです。
つまり、宮下文書というのは、富士王朝に残っていた複数の書物を徐福が編纂して作ったということなんです。
そして、除福の子孫が跡を継いで完成されていったということなんです。
この宮下文書には、除福が子供達にすべて「福」という名前をつけたと記されているため、このことが事実だとすれば、現代の「福田」「福山」「福島」と言った「福」がつく名前の人は、除福の子孫であえる可能性があるかもしれません。
また宮下文書には、秦氏の「秦」という姓も、除福と共に来日した集団の子孫の姓だと記されています。
このようにして作られた宮下文書は、その後「阿祖山太神功」の神官たちによって守られ続けてきました。
明治25年、山梨県南都留郡谷村村というところに、三輪義煕(よしひろ)という人物がやってきて、公証人役場を開きました。
彼は、三輪家という家に養子に入ったのですが、その前までは南朝忠臣の子孫を自称する神官の家柄でした。
山梨に後醍醐天皇の王子で、非業の死を遂げた大塔宮護良親王の御首級があると噂を聞き、それを調べようとやって来ました。
そんな彼がたどり着いたのが、小室浅間神社でした。
この神社の社家が宮下家になり、この家に南朝の貴重な記録が伝わっているとされていました。
その後の古文書の精査で、神代まで遡るような記録が書かれていることがわかった三輪は、
大正10年に、宮下文書のダイジェスト版として「神皇紀」を発表して、宮下文書を世に公開したのです。
当時のマスコミは、この本のことを大々的に取り上げたため、かなりの話題を呼んだそうです。
ところが、やはりお決まりのパターンで「こんな書物は偽書や!」といいう動きが出てきました。
日本の正史というのは「古事記」「日本書紀」しかなく、それ以外はすべて偽書だという考え方から出てくる動きです。
この動きにより、他にもいろいろな古史古伝が偽書認定されてきました。
しかし・・宮下文書は。今まで偽書認定されてきた
「竹内文書」、「九鬼文書」、「東日流外三郡誌」、「上記」、「秀真伝」
といった、古文書とは少し違うところがあるんです。
偽書認定のされ方が、他の古史古伝よりも、明らかに力が入っているんです。
他の古史古伝に関しては、正式な調査がされたわけではなく、出自や内容のでたらめな部分を否定されたわけなんですが・・・・
宮下文書に限っては、
官界、政界、学会の有力者たちが真っ向から調査して否定しているんです
まず、宮下文書が公開されてすぐに、齊藤実という人物を始めとする宮廷関係の官僚や東大教授を含む有識者によって、宮下文書を学術的に調査する財団法人が設立されました。
その法人は、発足後1年で一冊の報告書を世に出して解散します。
その報告書によって、宮下文書は事実上の偽書認定を受けることとなりました。
このように、官界、政界、学会の有力者たち真向から否定するということは、これまでの古史古伝ではありえなかったことです。
例えば
「上紀(うえき)」については、発表した人物を中傷する形で偽書化され
竹内文書は天津教弾圧と、狩野幸吉教授の批判で偽書化されました。
このように、内容に不備があることを指摘して偽書だと認定するのではなく、宮下文書は、そうそうたるメンバーで設立した法人が1年かけて調査して偽書であると発表したことになるのです。
ここまで徹底して「偽書」であると認めさせた意図は? いったい何なんでしょうか?
「記紀」でも富士山を隠しているのですから、ものすごく深い秘密がありそうですよね!
ということで、次回からは、宮下文書に描かれている内容について、ご紹介していきたいと思います。