出雲の王となった大国主命ですが、それだけでは満足しなかったようです。
彼は、越の国(現在の新潟県)を征服しに行くのです。
越の国は、ヌナカワヒメという女王が支配する国です。
この国ではヒスイが採れます。
そうです、世界三大ヒスイの産地と言われている
糸魚川翡翠(ヒスイ)
が採れるところです。
ヒスイは玉(ぎょく)といわれ、呪力を持つ宝石です。
そのヒスイが採れる「越王朝」は、豊かな富を持っていると考えられており
おそらく出雲は長い間、豊富な財力を誇る越の支配を免れなかったのでしょう。
その越の国を大国主命は攻めに行くのです。
今から7000年前の縄文時代、新潟県糸魚川市周辺で
ヒスイ文化
が起こりました。
世界の歴史を調べても、これほど古い宝石文化はなく、
日本は地球上で最初に宝石文化が生まれたところ
なのです。
大国主命は、越の国では
ヤチホコノカミ
と呼ばれています。
強い武力を持つ神
という意味です。
この名前が示すとおり、大国主命は、相当な規模の軍隊を連れて越の国征伐に向かったに違いありません。
しかし古事記では、この戦いの様子を
「ヤチホコは、高志国(越)のヌナカワヒメとも結婚したいと思って出かけていった。
その家に着いても、ヌナカワヒメは戸を開かずに家の中にいたが、ヤチホコは家の外から求婚の歌を詠んだ。ヌナカワヒメはそれに応じる歌を返し、翌日の夜、二神は結婚した。」
と記しており、ヤチホコがヌナカワヒメに求婚するという恋歌の形式で語っているのです。
雲の國で妻が娶(めと)れず
さて?
これは、単なる恋愛物語でしょうか?
大国主命は恋多きプレイボーイなのでしょうか?
私は、そうは思いません。
越王国という女王の国の興亡が、この二人の歌のやり取りに込められていると思うのです。
「ヌナカワヒメが戸を開かずに家の中にいた」
なんて、攻め入られて籠城しているみたいじゃありませんか~
そして、二人の恋歌のやり取りについては、
オオアナムチを祭祀する出雲系氏族とヌナカワヒメを祭祀する
現地氏族との何らかの同盟関係、あるいは交易関係
を象徴しているのだと思います。
というのも・・・・・
この事実をほのめかすような歴史的な発見が江戸時代にあったんですよ!!
それは、出雲大社の近くにある
命主社(いのちぬしやしろ)
の社殿を修理しようとして、巨石を取り除いたところ
ヒスイの勾玉と青銅器
が発見されたという出来事なのですが・・・
なぜ、その発見が越の国の征服事実を裏付けるのかといいますと、
近年、そのヒスイを鑑定したところ
新潟県糸魚川産のヒスイ
であることがわかったのです。
つまり、大国主命の出雲王朝は、高志国を支配し、日本海沿岸に強大な勢力を持つ大国となったことを示しているのです。
そして、大国主命は、高志国を征服しただけではあきたらず、この後南進してヤマトを征服しようとするのです。
そのことを「古事記」は
「正妻のスセリヒビメが大国主命とヌナカワヒメが交わした恋歌に嫉妬したため、
大国主命はしばらく妻から離れようとして大和の国に入ることを心に決めた」
というように、大国主命の征服の過程を大国主命の恋愛に置き換えて語っています。
こうして、高志国(越:新潟県)の女王であるヌナカワヒメは、大国主命と結婚することになりました。
大国主命と結婚したヌナカワヒメは、大国主命との間に
タケミナカタ(建御名神)
という神を生んでいます。
この神は、「古事記」の大国主命の国譲りの中で、タケミカヅチ神に抵抗して負け、諏訪に逃げた後封じ込められた神様として出てきます。
あの諏訪大社のご祭神がタケミナカタです。
「古事記」では、大国主命とヌナカワヒメの恋歌のやりとりで語られていることから武
力で越の国を完全に征服したというより話し合いにより
同盟関係若しくは交易関係を結んだのではないかと考えられます。
そんなことから、お二人の子供であるタケミナカタは、
大国主命により高志国に派遣された出雲一族であり
交渉後にヌナカワヒメの養子になったのではないかという説もあります。
では、世界有数のヒスイ産国の高志国の女王であったヌナカワヒメとは、いったいどのような女神だったのでしょうか?
まずは、ヌナカワヒメの名前の由来を見てみたいと思います。
ヌナカワヒメを漢字で書くと
沼河比売
となります。
ヌナカワヒメの名の由来は、単純に考えると「沼川の女神」ということになります。
「沼河」は単純に「沼川」を指すと思われますので、高志国国(新潟県)で「沼川」を探してみましたが、「沼川」という名前のついた川はありませんでした。
糸魚川翡翠の産地として有名なのは、「姫川」という川です。
この「姫川」流域が古代日本でほぼ唯一の翡翠の産出地であり加工地だったと言われています。
だとすれば、沼河は沼川という名前からきているのではなさそうです。
次に、考えられるのは、翡翠は古代ではなんと呼ばれていたのでしょうか?
調べてみると、古代日本では翡翠のことを瓊(ぬ)、沼名玉(ぬなたま、ぬのたま)、青玉、玉(たま)などと呼んでいたようです。
とういことは
「沼河」は「瓊(ぬ)の川」であり、つまり「翡翠の川」
のことを指すと思われます。
つまり、ヌナカワヒメの名の由来は
翡翠の川の女神
ということになるのです。
となれば、大国主命がヌナカワヒメと結婚したかったがよくわかります。
ヌナカワヒメ=翡翠
を手に入れたのですからね~
・・・といっても、ここでいう結婚は国と国との結婚ですが・・
しかし、このヌナカワヒメの最期については、悲しい神話が残さています。
ヌナカワヒメは、後によって、
大国主命から離縁されてしまい、悲憤のあまり越の姫川で入水自殺した
というのです。
このことは、何を意味しているのでしょうか?
ヌナカワヒメは名前のとおり、ヒスイの女神です。
・・・とすれば、
ヒスイの産地であった高志国の衰退・・・
ヒスイそのもののが姿を消す・・・
のいずれかが考えられます。
それで、ヒスイについて、調べてみますと、
日本におけるヒスイ文化は、古墳時代中期から後期にかけて衰退し、
6世紀には完全に姿を消した
となっています。
6世紀と言えば、大和政権が各地へ勢力を拡大した時代です。
仏教が伝来し、石材の加工技術が発達しました。
そういった歴史の流れの中で、ヒスイ文化は完全に姿を消してしまったのです。
よって、ヒスイとともにヒスイの女神であるヌナカワヒメも
入水自殺という形で、歴史の舞台から姿を消されてしまうのです。
このヌナカワヒメですが、一説では、
古事記の国譲り編で登場してくる「下照比売」や
三韓征伐をした「神功皇后」とも同一視されています。
こうして、オオクニヌシは高志国(越:新潟県)を攻め、女王ヌナカワヒメと結婚し、建御名方命(たけみなか)という子供をもうけましたが
このことが、正妻のスセリヒビメの嫉妬にあいます。
困った大国主命は、しばらく妻から離れようと、出雲から大和の国(奈良県)へ上がることを心に決めます。
身支度をしていよいよ出発するというときに、スセリヒビメと歌を歌いかわします。
(大国主命)
他の女たちがいろいろと着物をしつらえてくれても、その着物は自分には似合わない。お目のしつらえてくれる着物なら私にぴたりと合う。
私が仲間と一緒に大和へ行っても、お前は泣いたりしないというが、大和の1本ススキのようにうなだれて泣くお前の吐息は朝の雨の霧となって立つ、それを見れば私も浮気を慎むだろう
(スセリヒビメ)
あなた オオクニヌシノミコト。あなたは男でいらっしゃるから見て廻る島々磯々はつきないでしょう
そしてたくさんの女性を妻となさるでしょう
でも わたしだって女よあなたの他に男はいないのよ
あや衣のふかふかした夜具の下で、からむしのやわやわした夜具の下で、たくぶすまのごわごわした夜具の下で
あわ雪のようにやわらかいわたしの胸を。白いたおやかな腕をあなたの指がもとめもとめまさぐるの栲
あなたの腕に抱かれていつまでもいつまでも眠りたいのよ
そして、お互いに杯を交わして誓いを結び、首筋に手を掛け合い固めの杯をかわしました。
作家の梅原 猛さんは、著書「葬れた王朝」の中で、
スセリヒビメの嫉妬心をよくわかって、このような歌を送り、固めの杯を交わしたことは、スセリヒビメを一生かわらない正妻としてみとめたことを示しており、この大国主命の正妻の扱い方は非常にうまい
と評価されています。
「古事記」では、この後、大国主命はスセリヒビメに対する愛おしさが蘇り、大和行きをとりやめたことになっています
けれど実際には、この出来事以降も、大国主命は各地を征服しに出かけ、行く先々で女性を愛し、子孫を増やしていったと伝えられています。
しかし、その後の戦いについては、「古事記」も「日本書紀」も何も語ってはいませんが
各地に残された大国主命の足跡が、そのことを物語っています。
さて、大国主命の妻は、
正妻のスセリヒビメ
因幡のヤガミヒメ
越のヌナカワヒメ
らの他どのような方がおられるのでしょうか?
「古事記」には
タギリヒメ(多紀理毘売)
カムヤタテヒメ(神屋楯比売)
(トトトリノカミ)鳥取神
などが描かれています。
ヌナカワヒメとの間には、
タケミナカタ
が生まれます。
そしてタギリヒメとの間には、後の国譲りに出て来る
下照比売(一説ではヌナカワヒメと同一視)
が生まれます。
カムヤタテヒメとの間には、
恵比寿様と同一視される(コトシロヌシ)事代主
が生まれるのです。