「日本書記」では、三柱の女神はアマテラスの子となっています。
そして、「書記」の一書にはアマテラスは、この三柱の神を筑紫に降臨させ
「お前達は、海路の途中に鎮座して、天孫を助けなさい」
と命じたとあります。
海路の途中とは、「古事記」にも記されているように九州の
宗像大社
のことです。
宗像大社は九州本島の辺津宮
その沖合いの中ノ島にある中ノ宮
更に沖合いにの沖ノ島にある沖津宮
よりなります。
今の三柱の神様はこれら3つの社に鎮座しています。
そして、中ノ島と沖ノ島は九州本州の辺津宮から、朝鮮半島に向って一直線に並んでいるのです。
古事記と日本書記では、この三柱がアマテラスの子かスサノオの子かで議論がされていますが
それは大和朝廷や天皇家の関係が生じた後のことであり
もともとこの女神は宗像(胸形・胸肩)氏により祀られました。
このことは、「古事記」「日本書記」とも複数の伝えに共通しております。
宗像という一族は、九州北部の沿岸部と玄界灘の島々に勢力を持っており、航海や漁撈(ぎょろう)などに秀でた海人系の人々でした。
そして、彼らは、沿岸における海運や漁撈にとどまらず、荒々しい外洋を乗り越えることのできる操船術や航海術に長けておりました。
そうした宗像氏の性格が証明されたのは、昭和29年から46年にかけての三次にわたる発掘調査でした。
調査の結果、四世紀後半から十世紀初頭にかけての遺物12万点が、沖津宮の社殿の周囲に点在する巨岩の上や岩陰などから見つかり、そのほとんどが、国宝か重要文化財に指定されました。
そのため、沖ノ島は、「海の正倉院」と呼ばれ、世界文化遺産へ登録しようという話も持ち上がっています。
そして、これらの発掘から明らかになったことは、朝鮮半島や中国の人々と倭人との間の頻繁な交流であり、宗像氏の航海術と彼らのまつる三女神が、渡海の際に大きな役割を果たしていたということでです。
さらに、沖ノ島の役割として、
朝鮮半島に一番近い沖ノ島は防衛の最前線であった
ということです。
仏教伝来(538年)の時代前後から、三韓(当時、朝鮮半島にあった百済、新羅、高句麗の三国)とわが国の間には緊張関係が存在しました。
とくに新羅は機を見て日本に侵攻する恐れがありました。
神功皇后の新羅遠征の話もそんな緊張関係が根本にあります。
「日本書記」の中でアマテラスが三柱の女神に宗像を治めるように命じたのも、そんな複雑な外交関係を反映しているといえます。
聖徳太子の摂政の時代(598~622?)、新羅から一体の仏像が太子宛に贈られてきました。
しかし、太子は複雑な三韓の事情を考慮して、この仏像を自らまつることはしませんでした。
そして、後にその仏像は京都太秦の広隆寺の開基である秦河勝が賜り、同寺にまつられたと考えられています。
この仏像が広隆寺にまつられている有名な
弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしゆいぞう)
です。
いずれにしても、朝鮮半島と日本は長きにわたって緊張関係が存在し、ときとして一触即発の状況にもなりました。
そんなことから、朝鮮半島に一番ちかい沖ノ島は防衛の最前線となっていたのです。
アマテラスとスサノオの誓約の神話には、当時の緊迫した国際関係も反映されていると見ることができるのです。