国生み(古事記) ~海に流された蛭子のその後・大八島と六島の誕生~

さてさて、イザナキとイザナミが天御柱を廻って出会ったとき、女神イザナギのほうから声をかけてしまったばかりに

骨の無い子として生まれた水蛭子(ヒルコ)

は、可哀相葦の舟に乗せられて海に流されてしまいました。

 

古事記には

「くみどに興して子水蛭子を生みたもう。この子は葦船に入れて流し去りき」

と書かれています。(くみどとは寝所のことです)

その後、不幸な末路をたどった可哀相なヒルコ達ははどうなったのでしょうか?

 

ヒルコはそのまま海を漂い、

兵庫県西宮神社

に流れ着き、そこで信仰されることとなりました。

 

 

ヒルコのような神を古来の人々は来訪神として、大事に祀ります。

「海の彼方からやってきて幸福と富をもたらす」といわれているからだそうです。

 

そして、蛭子の読み方を「エビス」に変えて、中世には福の神の「恵比寿さん」として信仰されるようにもなりました。

 

 

しかし・・・

国書である古事記が、国生みの始めに、はじめて生む子に、なぜこのような神を持ってきたのでしょうか?

 

そして、二番目に生まれた子のアワシマも、数には数えず海に流してしまいます。

 

 

 

それでは、もうひとつの国書「日本書紀」にはどう記述されているでしょうか?

 

日本書記では、イザナキとイザナミは、神ではなく、

島や海や山や川そのものを生んだ

とされています。

 

 

そして、

「子を産むときに及んで、まず淡路の州を以って胞(え)と為す。意(こころ)に不快(よろこにざる)ところなり。ゆえに名は之を淡路の州という」

と記載されており、一番最初に生んだのは

淡路島

をだとされています。

 

 

「胞(え)」とは、胎盤のことをさし、

淡路の州は胎盤であり生み損ないだった

と言っているのです。

 

 

だから不快であり、「吾は恥ています」ということで

吾恥(あわじ)から転じて淡路

と名付けられたと解釈されています。

 

すなわち、日本書記でも

第一子は「生み損ない」であった

と言っているのです。

 

 

では、ヒルコとアワシマはどう記載されているのでしょうか?

日本書記ではこの二神については、イザナキとイザナミが国生みを終えた後に誕生したとされています。

 

しかし、3年経っても足が立たないことを理由に、やはり、二柱の神を葦の船に乗せて流してしまいます。

 

また、

古事記では水蛭子と記載し、

日本書記では蛭子

と記載されています。

 

 

この「蛭」という字の意味は「吸血虫のヒル」を表します。

なんとも、おぞましい名前ですよね~

 

 

そして古事記は、この不幸な神様達の誕生の後に、正しい国生みがされることを記載しています。

この神話に意図的な悪意を感じるのは私だけでしょうか?

 

新しい国の建国の前に、

最初に抹殺しておかなければいけない何者かの存在をヒルコとして登場させたような・・・・

 

それとも、ただ単に、

このような方法で未熟児を始末した古俗の風習を反映しているだけなのでしょうか?

 

 

また、ヒルコを「日子」と当てて「太陽の子」という解釈の仕方もあります。

天照大神が別名「オホヒルメ」「日女」であるように、

男性太陽神「日子」であろうというわけですが、私的にはあまりしっくりとはしない説に思えます。

 

そして、不幸な末路をたどったこの神が、後世には恵比寿さんと習合して、福の神として祀られるようになるのですから・・・

 

 

イザナキとイザナミが天御柱を廻って出会ったときに、女神イザナミの方から「なんとまあ、すばらしい若者ですね」と声を掛け交わったところ、

水蛭子とアワ島という生み損ないの二柱ができてしまいました。

 

それで、二柱の神は

「私たちの生んだ子はよくなかった。やはり天つ神のところに行って申しあげることにしよう」

と相談して、天上世界に上がって指示を仰ぎました。

 

 

天つ神が太占(ふとまに:鹿の肩骨や亀甲で神意を伺う占い)で占い、

「女が先に声を掛けたのがよくなかった。もう一度帰り降って言い直せ」

と言ったので、オノゴロ島に帰り降って、改めて天の御柱を行き廻りました。

 

 

今度はイザナキがまず、

「なんとまあ、かわいい娘よ!」

と言い、イザナミが後から

「本当にまあ、すばらしい若者ですね」

と言いました。

 

そう言い終えて交わり生んだのは、

アワジノホノサワケの島(淡路島)

でした。

 

 

次に生んだのが

イヨノグタナの島(四国)

であり、この島は、

体が1つで、顔が4つ

ありました。

 

 

その4つの顔は

伊予の国(愛媛県)

讃岐の国(香川県)

粟の国(阿波、徳島県)

土佐の国(高知県)

でした。

 

 

次に

オキノミツゴの島(隠岐島)

を生みました。

 

 

次に

ツクシの島(九州)

を生みました。

この島も、

顔が4つありました。

 

それは

筑紫の国(福岡県の大部分)

豊の国(大分県と福岡県の一部)

肥の国(球磨(くま)地方を除く熊本県と長崎県、佐賀県、宮崎県)

熊曾の国(熊本県球磨地方と鹿児島県)

でした。

 

 

次に

イキの島(壱岐島)

ツ島(対馬)

サドの島(佐渡島)

オオヤマトトヨアキズ島(本州)

を生みました。

 

 

これらの8つの島を

大八島国(おおやしまくに)

といいます。

 

 

そして二柱の神が帰るときに

キビノコ島(岡山県児島半島)

アズキ島(小豆島)

オオ島(山口県の屋代島か)

ヒメ島(大分県の姫島)

チカの島(五島列島)

フタゴの島(男女群島の男島と女島か)

を生みました。

 

 

キビノコ島以下が

六島(むしま)

です。

 

 

以上が、イザナキとイザナミの国生み神話になります。

 

畿内以東については、語られていませんが、これは神話ができたところには、東日本はまだ政権党統治外だったようであり、それが反映された結果だと考えられています。

 

 

大八島国と六島を生んだイサナキとイザナミの二柱の神は、続いて神々を生みました。

海の神
河口の神
風の神
木の神
山の神
野の神

などでした。

 

二柱の神が生んだのは23柱の神様でした。

こうして、国の上で活動する神々を生むことで、日本列島を自然豊かな土地に変えていきました。

 

この23柱の神様は、主に3つに大別されます。

まず、オホコトオシヲという神からカザモツワケノという神までの7柱の神様は
「抽象化された神々」であり、「神世七代を引き継ぐ純粋な神様」と言われています。

 

オホコトオシヲ大事忍男神

と書き
カサモツワケノ風木津別之忍男神

と書きます。

両者の名前に共通する「忍」の文字は、美称で「偉大なる事柄の立派な男神」という意味を持ちます。

 

次に
シナツヒコやオホヤマツミ、カヤノヒメとその子供達は、「自然現象にまつわる神々」であり、

水に関する神から海、河の神へ、

そして、

風、木、山と続き闇を司る神

も生まれました。

 

ここに分類されている神々は、物語が具体的に残っているのも特徴です。
先のグループよりも、人間の生活に近い存在であり、それゆえに詳しく語らえたのかもしれません。

 

最後のグループは、全体の性格は不統一ですが、

トリノイワクスフネ(鳥のように速く行く堅い楠でできた船の神、又の名はアメノトリフネ)
オオゲツヒメ(立派な食物の女神)
ヒノヤギハヤオ(物を焼く勢いが激しい火の男神)またの名をヒノカグツチ

等の穀物の神・火の神を生みました。

これらの神は
生産に関わる神々
と捉えることができます。

当時、農耕生活を営んでいた人々の生活に密着した性格を持っています。

 

さて、ここで何か気づきませんか?
これらの神様は、全て古代の自然崇拝の原風景を表しています。

古代においては、自然に対する畏怖といった人間の根源的な感覚があり、天地自然の動きといった人知の及ばないものすべてを「神」と呼び祀りました。

身近な動植物だけでなく、簡単には人間が入ってはいけない山や森、巨木や奇岩といった場所や存在にも、人々は神を感じ、そのような場所を神域として畏怖したのです。

 

この古代の人々の神に対する捉え方というのが、日本人のDNAとして受け継がれ、その後、仏教も道教も、キリスト教の神様でさえも「ありがたい外国の神様」として取り込んでいくのです。

 

古事記には、こういった古代人の世界観が随所に見られますので、とてもおもしろいと思います。

この後、イザナミは最後に生んだ火の神に陰部を焼かれて負傷し死んでしまうのですが、この古事記に描かれた死の捉え方も、古代の人々の生死感が強く表れています。