国生み(古事記) ~最初にできた島「オノコロ島」と海に流された蛭子

イザナギとイザナミは

天の浮橋(あめのうきはし)の上に立ち、くらげのような国土が漂っている海にその矛を下ろしました。

そして、海水をころころと掻き鳴らして引き上げたときにできたのがオノコロ島です。

 

このオノコロ島には、いくつかの比定地があります。

 

代表的なのが、

兵庫県淡路島の南西約4.6キロに浮かぶ「沼島(ぬましま)」

です。

まるで、勾玉のような形をした周囲約10キロ、面積約2平方メートルの小島です。

 

 

この島は、人口600人あまりで島人は漁業を中心として暮らしています。

最近でこそ、古事記ブームで観光客も訪れるようになったそうですが、以前は、近海の磯釣りの名所として釣人に知られるだけの離島でした。

 

オノコロ島の比定地はまだまだ他にもたくさんあるのですが、昔から島の人達は「ここがオノコロ島」と語りついできたそうです。

 

 

イザナキとイザナミが、国つくりをする第一段階として、オノコロ島に

「天御柱(あめのみはしら)」

という高い柱を立てました。

 

これは神が高天原と地上を登り降りする際に使う道だといわれています。

 

また、「日本書記」では、この柱のことを「国中の柱」と言い、アマテラスをこの柱で高天原に上げて、高天原の支配者としたとされています。

 

 

下の写真の岩は「上立神岩(かみたちかみいわ)」と呼ばれるもので、二神がオノコロ島に立てた「天御柱(あまのみはしら)」と言われています。

 

また、上立神岩の南東には「平バエ」という小島があります。

 

この島は、「八尋殿」とも言われていますが、地元では竜宮伝説も語られているとか・・・・

 

沼島の民族調査報告書には、次のようなことが書かれています。

海外からやってきたと考えられている古代海人族は、黒潮に乗って舟で小島つたいに北上してきたという。

九州や瀬戸内海に上陸したものもあれば、定着を好まず遠方へ出かけ漂泊を常としたものもあった。

彼らにはタブーがあって、直接大陸や本土に上陸せず、何よりもまず拠点とする島を探した。

彼らは農耕をしないので、平野は求めないが、舟のつけられる砂浜は絶対に必要だ。

水があり、さらに彼らの神を祀るにふさわしい山や場所があるか、がその条件だった。沼島は紀伊水道の入り口にあり、本土にも近い。小さな湾と砂浜があり、島の南部には古水、大水、水の浦などの水源がある。

さらにゆるやかな立錐形の山と、信仰心を満足させるに足りる巨大な陰陽石・上立神岩がある。

沼島は、彼らの諸々の条件を満たす舞台としてふさわしいところだった。

そして、これらの海人族たちが語り伝えた島生み伝説が、国生み神話の原型になった。

海人族は、沼島を第一の拠点として、淡路本島、阿波、紀州など、より広大な舞台へ活動範囲を広げていった。

一部はこの島に生活の根を降ろし、陰陽石や岩礁を彼らの神の磐座(いわくら:神が降臨する際の岩石)とみたて、海上生活の安全と加護を祈り継いできた。やがて大和にも近い沼島は海上交通の要衝となり、情報拠点となった。

そして、彼らの伝承もやがて宮廷に吸収されていった。

海人族の航海技術を受け継ぐ沼島は、その後も中世・戦国期・江戸時代を通し、源平の屋島の合戦や南北朝の戦い、豊臣秀吉の朝鮮出兵などに登場する沼島水軍の基地として、また蜂須賀族の江戸参府などに優れた水夫を供給する浦として活躍した。

 

さて、古事記の話を突けます。

 

イザナギとイザナミの二柱の神は、オノコロ島に天降って、

天の御柱(世界の中心となる柱)八尋殿(やひろでん:広大な殿社)を立てました。

 

そこで、二神は次のようなやりとをしました。

 

イザナギ;「お前の体はどのようにできているのか」

イザナミ:「私の体にはでききらない所(女陰)が一箇所かります」

イザナギ:「私の体にはできすぎた所が一箇所ある。私のできすぎた所で、お前のでききらない所を刺し塞いで、国土を生み出そうかと思うが、どうか」

イザナミ:「それがいいでしょう」

イザナキ:「それでは、私とお前のこの天の御柱を行き廻り、出会った所で交わることにしよう。お前は右から廻れ。私は左から廻ろう」

 

 

さてさて、上記の様子を古事記のでは次のように語られています。

「お前の体はいかにしてできているのか」

「わたしの体は、成り成りして、成り合わないところがひとところあります。」

「わが身は、成り成りして、成り余っているところがひとつある。そこで、このわが身の成り余っているところを、お前の成り合わないところに刺しふさいで、国土(くにつち)を生み成りそうと思う。生むこといかに。」

「それは、とても楽しそう」

「それならば、われとお前と、この天の御柱を行きめぐり、逢ったところで、ミトノマグハヒをなそうぞ」

となります。

 

 

「ミトノマグハヒ」とは、男と女が体を重ね合わせることをいいます。

文章から二神の会話が、生き生きしていて、とても楽しそうな感じがしますよね~。

 

 

しかし・・・・

このミトノマグハヒは失敗してしまいます。

 

御柱を廻って出会ったとき、

イザナミがまず、「ほんとうにまあ、すばらし若者ですね!」と言い、イザナキは後から「なんとまあ、かわいい娘よ!」と言いました。

 

そのときイサナキは「女が先に声を掛けたのはよくないことだ」と諭しましたが、そのまま寝所で交わりました。

 

なにせ・・・・

足りないところを余っているところでふさごうと言われて「それは、とても楽しそう(原文は「然善」)」と応えているイザナミですから、男のイザナキより先に声をかけても納得ができますね。

 

とても積極的な女神さまなんですよね~

 

 

ところが・・・・

 

その結果生まれたのは・・・・

蛭(ひる)のような骨のないヒルコ

でした。

 

この子は葦の船に入れて流しました。

 

 

次にアワ島を生みましたが、これも

胎児を包む羊膜のような子

だったので流してしまいました。

 

 

生まれたわが子を流してしまうとは・・・・

とんでもないご夫婦ですよね

今の世の中なら、幼児虐待で逮捕ですよ!!

 

 

二神は、どうしてこのような子が生まれたのか、高天原に昇って天の神々に尋ねてみました。

どうやら女神であるイザナミの方から声を掛けてミトノマグハヒを行ったことが原因のようでした。

 

それで、二神はもう一度、天の御柱を廻り、今度は男神のイザナキの方から声をかけてミトノマグハヒを行いました。

すると、今度はうまくいって、次々と子を授かるようになったのです。

 

この話には、

男性中心に物事を運ぼうとする男尊女卑の思想

が顕著に現れていると考えられています。

 

 

体が不自由な赤ん坊が生まれた理由を

「男性からではなく女性から先に声をかけたからだ」

という強引は理由で押し通してしまうのですから、古事記が生まれた頃の日本は、男性中心の社会だったのでしょうね。

 

認知されないまま海に流された不幸な末路をたどった2柱の子供たちは、いったいどうなったのでしょうか?

 

次回は蛭子のその後についてご紹介します。