出雲の国譲り神話(古事記) 建御名方神と建御雷神の力比べ

オオクニヌシが平定した葦原中つ国(地上界)を天存族に納めさせるために、アメノホヒノカミ、アメノワカヒコ等の神を遣わせましたが、ことごとく失敗に終わり、ついにアメノワカヒコは死んでしまいました。

 

さらに、アメノワカヒコのお葬式では、とんだハプニングが起こり、散々な状況になってしまいました。

 

天上界では、なかなかうまくいなかい国譲りの交渉に、天照大神以下の神々は頭を抱えていました。

 

オモイカネをはじめとする八百万の神々は、天照大神に向かって

 

「天の安の河の河上の岩屋にいるイツノオハバリノカミ(伊都之尾羽張神)を遣わせるのが良いでしょう。

もし、この神ができないのであれば、その神の子、タケミカヅチノオノカミ(建御雷之男神)を遣わすべきです。

ただ、アメノオハバリノカミ(天尾羽張神:伊都之尾羽張神の別名)は、天の河の水を堰き止め道を塞いでいるので、他の神はそこに行くことができません。

ですので、アメノカクノカミ(天迦久神)を遣わせ、アメノオハバリを尋ね説得させるのが良いでしょう」

 

と提案しました。

 

伊都之尾羽張神は、イザナギがヒノカグツチ(火之迦具土神)を斬った時の剣(十拳劔)の神

 

 

アメノカクは、アメオハバリを訪ねると、

「かしこまりました。仕え奉ります。

ただし、この役をお仕えするのは、我が子であるタケミカズチノカミを遣わすのが良いでしょう」

と提案しました。

 

そこで、天照大神は、アメノトリフネノカミ(天鳥船神)タケミカヅチと共に地上に使わせることを決めました。

 

このタケミカヅチの神は武神であり、とんでもなく強い神様でした。

今度は、力技で国譲りを承諾させようということになったのです。

 

武闘派のタケミカズチノカミ(建御雷之男神)と、トリフネノカミは、出雲国のイザサノオハマ(伊耶佐之小浜:島根県出雲市大社町の稲佐浜)に降り立ち、ました。

 

タケミカヅチは、十拳劔を抜くと、海の波に逆さまに刺してその上にあぐらを組んで座り、オオクニヌシに対して

 

「我々は、天照大神と高御産日神の仰せで遣わされ参った。

そして、次のことを問うために遣わされた。

『汝がうしはける(領有する)葦原中国は、我が子の知らす(治める)国である』

汝の考えはいかがなものか?

この国は天照大神さまのお子様のものだ!」

 

と迫りました。

 

 

すると、オオクニヌシは、

「私では何も申し上げられません。

我が子、八重事代主(やえことしろぬしのかみ:事代主神)が代わって申し上げることでしょう。

ただ、今息子は鳥を狩り、魚を釣りに御大之岬(みほのさき)へ行ったまま、まだ帰っていません。」

と答えました

 

 

そこで、タケミカヅチは、トリフネノカミを遣わせ、ヤエコトシロヌシノカミ(八重言代主神)の元に遣わせ、尋ねました。

 

コトシロヌシは、

「恐れ多いことです。この国は、天つ神の御子に奉りましょう」

と言い、乗って来た船を踏んで傾けると、

 

天の逆手(通常の拍手の逆で呪術的な拍手の仕方)を打って

船を青紫垣(あおふしがき:青々とした紫垣)に変え

 

その中に隠れてしまいました。

 

 

そこで、トリフネノカミとタケミカヅチの二柱は、オオクニヌシに

「そなたの子、八重事代主は、『天つ神の御子に奉る』と言っているが、他に申す子はいるのか?」

と聞きました。

 

すると、オオクニヌシが

自分にはもう一人タケミナカタという息子がいる

と言い出しました。

 

申し上げているいる最中に、タケミナカタ(建御名方神)が、

千人かかりで引くほどの大きな岩を、手の上で転がしてもてあそびながらやって来ました。

 

「我が国やって来て、こそこそと隠れ、物を言っているのは誰だ!

ならば私が力比べをしてやろうじゃないか!

私が先に手を取って見せよう」

 

と言いました。

 

 

そして、タケミカヅチの手を掴んで勝負を挑みました。

 

ところが、なんと!!

タケミカヅチを掴んだタケミナカタの手は、たちまち氷の柱へと凍り付き、

さらにそれが剣へと変化し、タケミナカタ自身を襲ってきたのです!!

 

これに驚き、恐ろしくなったタケミナカタは退く、後ずさりしてしまいます。

 

すると、タケミカヅチが、

今度は私が手を取って見せよう!

と言って、タケミナカタの手を掴んだとこおr、その手はまるで若い葦を握りつぶすかのように、タケミナカタの手を握りつぶし、そのままどこか遠くに投げ飛ばしてしまったのです。

 

この歴然とした力の差に恐怖を感じたタケミナカタは逃げ出しましたが、タケミカヅチはこれを追いかけ、科野国の州羽の海(シナノノクニノスワ:信濃国 長野県諏訪湖)に追い詰めました。

 

そして、遂に殺されそうになったとき、タケミナカタは

恐れ多いことです。どうか私を殺さないでください。

今後、この地から他にはどこにも行きません。

また、父、オオクニヌシの命令に背くことも、兄、コトシロヌシの言うことにも背きません。

この葦原中国は、天つ神御子の命ずるままに献上いたします」

と言って降伏したのです。

 

 

そこで、再び、トリフネノカミとタケミカヅチの二柱は、出雲に戻り、オオクニヌシに

「そなたの二人の子である、八重事代主と建御名方神は、天つ神御子の考えに背むかないと言ったが、そなたの心はいかに」

と問いました。

 

オオクニヌシは、

「我が子、二柱の神が申し上げたとおり、私も同じ考えで背くつもりはありません。

この葦原中国はご命令に従い差し上げることにします。

ただ、天つ神巫女が天津日継(あまつひつぎ:皇位継承)をお受けになる宮殿のように

地面底に届くほど宮柱を深く掘りたて、高天原に届くほどに高く千木(ちぎ)を立てた宮殿に私が住み、祭られることをお許しください。

それが許され叶うのであれば、私は多くの曲がりこんだ道を経て、いく片隅の国(出雲国)に隠れ留まることにいたしましょう。

また、多くの私の子供達、百八十神(数多くの神)は、八重事代主を先頭に、神々を統率するならば、天つ神御子に背く神などおりません」

と条件を出し、国を譲ることに同意しました。

 

 

こうして、オオクニヌシのために

出雲国の海岸近くにとても立派な宮殿(出雲大社)が建てられ

ミナトノカミ(水戸神:神生みで生まれた河口を司る神)の孫クシヤタマノカミ(櫛八玉神)

が料理を作り天の御饗(みあえ:飲食のもてなし)を天つ神に献上しました。

 

こうして祝いの言葉を申し上げたクシヤタマノカミは、鵜(う)に姿を変え

海の底に潜り、海底の赤土(はに:あかつち)を銜(くわ)え採って来て、たくさんの平らな皿をつくりました。

 

また、

わかめの茎で臼を造り

昆布の茎で杵(きね)を作って

その臼と杵で火をおこし

 

「私がきりだした火は、高天原のカムムスヒノミオヤノミコト(神産巣日神)の宮殿に煤の跡が垂れ下がるまで焚き上がる火であり、地の下では岩盤を焚き固めさせる火です。

そして、楮(こうぞ)で作ったなわ(白く長い縄)を伸ばし海に投げ入れ、海人(あま)が釣った口の大きい尾ひれも大きく立派な鱸(すずき)を引き上げて、竹で編んだ器がたわむほどたくさんの魚料理を献上いたしましょう」

と言いました。

 

ここに登場する「臼」「杵」は、火を起こすための板と棒のことなんですが、出雲国造の代替わりの際に行われる火継式において用いられるものです。

国造りになった人間は、その任にある間、この火を国造館の御火所で灯し続け、それで自分の食事を調理するそうです。

明治以降は、祭祀を行うときだけ調理をすることになったそうですが、それ以前は、国造りである間は、それを続けることになっていました。

 

 

こうして、タケミカヅチは高天原に帰り、葦原中国を説得し平定したことを報告しました。

また、オオクニヌシは、宮殿(出雲大社)の中にお隠れになりました。

 

 

これによって、オオクニヌシは自らが作った国を、高天原から天降った天津神に献上することになったのです。

 

この物語は、一般的に「国譲り」と呼ばれることが多いのですが、古事記にはそうした語句は出てきません。

 

「国譲り」ということばが用いられたのは近代に入った大正時代末からであったようですが、古事記が編纂された時には、オオクニヌシから天つ神への地上支配の以降が平穏に果たされたことを強調したかったため、国譲りという呼称は使われなかったのではないかと言われています。