前回は、初代大和王権の王となった神武天皇が137歳で亡くなると、皇位の座を巡って争いがおきた話をご紹介しました。
今回からは、第10代崇神天皇の王権確立の話へと舞台は移ります。
大和の国を襲う祟り
神武天皇以降、天皇の位は
綏靖、安寧、懿徳、考昭、考安、孝霊、孝元、開化天皇
へと受け継がれていきました。
開化天皇の没後は、子の御真木入子印恵(みまきいりこいにえ)の命(崇神天皇)が師木の水垣の宮(奈良県桜井市金屋のあたり)で天下を治めました。
皇子7人、皇女5人の合わせて12人の子をもうけました。
また、大毘古(おおびこ)の命の娘、御真津比売の命との間に生まれた倭日子の命を埋葬するとき、殉死の風習を廃止して、人垣を立てることを始めました。
この崇神天皇の時代に、疫病が大流行しました。
おさまる兆しもなく、困り果てた天皇は夢に神託を得ようと、神牀(かむとこ)というそれ専用の床を整えて横になりました。
すると、夢に大物主の大神が現れ、こう告げました。
「疫病はわが意思によるものだ。
意富多々泥古(オオタタネコ)にわれを祀らせるならば、祟りはやむであろう」
そこで、天皇が四方へ使者を送って捜させたところ、河内の美努(みの:大阪市八尾市)という村で、その男が発見されました。
招請して素性を訪ねたところ、
大物主の大神と陶津耳命(すえつみみのみこと)の娘、活玉依毘売(いくたまよりひめ)の間に生まれた櫛御方の命(くしみかたのみこと)の曾孫であることが判明しました。
そして、祖父は飯肩巣見の命、父は建甕槌命(たけみかづちのみこと)だといいます。
天皇はたいそう喜び、すぐさま意富多々泥古を神主として三諸山(大神神社)に行かせ、意富美和(おおみわ)の大物主を祀る神事を執り行わせるとともに、あらゆる天つ神・国つ神の社を定め、供え物を捧げました。
また、
宇陀の墨坂の神には、赤い楯と矛を
大坂の神には黒い楯と矛を捧げ、
その他、山裾の神から川の瀬の神に至るまで、ありとあらゆる自然界の神々に漏れなく供物を捧げました。
すると、さいもの疫病もようやく終息に向かい、国内は平穏になりました。
大物主の神の夜這い
意富多々泥古という男の曾祖父、櫛御方の命の出生には、次のような秘密がありました。
そもそも活玉依毘売は輝くような美少女でした。
そんな彼女のもとへ、夜な夜な訪ねて来る男がいました。
音もたてずに突然現れる不思議な男でしたが、その姿や形や振る舞いからは、比類なき気品が感じられました。
こうして愛し合い、夜ごと共寝をするうちに、まだそれほど日数も経たないとうのに、活玉依毘売は身ごもりました。
両親にすれば、不思議でなりません。
まだ結婚もしていない身なのにどうして妊娠したのか?
両親の質問に、活玉依毘売は答えました。
そこで、両親は男の素性を確かめようと、活玉依毘売に
床の前に赤い土を撒き散らし、それから糸巻きに巻いた麻糸を針に通して、男の着物の裾に刺しておくようにと
一計を授けました。
翌朝、両親が活玉依毘売の部屋に行ってみると、麻糸は戸の鍵穴を通り抜けて外へ通じていて、糸巻きには三勾(さんわ:3巻き)しか残っていませんでした。
糸をたどって行きついたところは、美和山の神の社でした。
これにより、その男が大物主の大神であり、活玉依毘売のお腹にいるのが神の子とわかったのです。
糸巻きに残った麻糸が三勾だったことから、その地を美和と呼ぶようになりました。
また、この意富多々泥古は神(みわ)の君と鴨の君の祖先です。