天孫降臨(古事記) 猿田毘古の帰郷

ニニギノミコトの御一行は、天之石位(アメノイワクラ:高天原にある石の御座)を離れ、天の八重になびく雲を押し分けて、いくつもの道をかきわけ、雲を押し分けて筑紫の日向の高千穂の霊峰(くじふるの嶺)に降り立ちました。

 

〇 高千穂のくじふるの嶺(たけ)の場所は、九州南部の霧島連峰の「高千穂峰」

であるという説と、

〇 宮崎県の「高千穂町」

の二説があります。

 

この時、天忍日命(アメノオシヒノミコト)と、天津久米命(アマツクメノミコト)の二柱の神が

・ 天之石靫(アメノイワユキ:靫とは矢を入れる武具)を背負い

・ 頭椎(クブツチ)の太刀:柄の頭がこぶのように丸い形をしたもの

・ 天之波士弓(アメノハジユミ):ハゼの木で出来た神聖な弓

・ 天之真鹿児矢(アマノマカコヤ):光り輝く矢

を携えて先頭に立って仕えました。

 

天忍日命(アメノオシヒノミコト)は、

大伴連(トオトモノムラジ)の祖であり、靫負部(ユゲイベ:朝廷を守護した品部)や舎人部(トネリベ:天皇に直接仕え、雑役、警衛などにあたった部)を統率する氏族になります。

 

天津久米命(アマツクメノミコト)は、

久米直(クメノアタイ)の祖で、大伴氏の支配下で軍事や宮廷の警衛を司った部を統率する軍事氏族です。

 

 

ニニギノミコトは、笠沙之岬(カササノミサキ:鹿児島県南さつま市笠沙町の野間岬)に着き

「ここは朝日がまっすぐに射し昇り、夕日がいつまでも輝き渡る素晴らしい国だ」

と言い、地底深く穴を掘って柱を埋め、屋根が高天原に届くほどの高い千木を立てて、立派な宮殿を築き、そこにお住まいになりました。

 

ということで、このように天照大神の孫である、ニニギノミコトが葦原中つ国を治めるために、天降りされたことが、「天孫降臨」と言われているわけなんです。

 

高千穂に降り立ったニニギノミコトは、天宇受売神(アメノウズメノミコト)に

「先導役として仕えてくれた猿田毘古神を、最初に名前を尋ね正体を解き明かしたお前が伊勢(三重県)に送って行きなさい。そして猿田毘古神の名をあなたが受け継ぎ、自分の名としなさい」

と命じました。

 

そして、これによりアメノウズメノミコトの子孫である女性達は、男神の猿田毘古神の名を受け継いで、「猿女君(サルメノキミ)」と呼ばれるようになりました。

 

アメノウズメノミコトは、

猿女君の祖であり、「天の岩戸」で岩戸の前で舞を舞ったという伝承から「鎮魂祭(ちんこんさい、みたましずめのまつり)での舞楽を演じる巫女を出す氏族です。

「鎮魂祭」というのは、宮中で新嘗祭(にいなめさい、にいなめまつり、じんじょうさい)の前日に、天皇の鎮魂を行う儀式です。

 

さて、三重に帰郷した猿田毘古神ですが、

阿耶訶(あざか:現在の三重県松坂氏大阿坂町、小阿坂町)で漁をしていたところ、比良夫貝(ひらぶかい)に手を挟まれて、海に沈み溺れてしまいました。

 

このことにより、

・海の底に沈んでいる時の猿田毘古神の名前を「底どく御魂(そこどくみたま)」といい、

・沈み行く時に海水の水粒がつぶつぶと上がった時の名前を「つぶ立つ御魂」といい

・海水の沫(あわ)が割れはじけた時の名を「沫咲く御魂(あわさくみたま)」

言われるようになりました。

 

また、猿田毘古神を祀る神社は、三重県松坂市にある「阿射加神社(あざかじんじゃ)」になります。

 

猿田毘古神を三重県までお送りし、戻って来た天宇受売神は、

鰭(ひれ)の大きな魚から、鰭の小さな魚までことごとく呼び集めて、その魚たちに問いました。

 

「お前たちは天つ神御子に仕えるか?」

と問うと、魚たちは皆、

「お仕えします」

と言いました。

 

けれど、その中でナマコだけは何も答えません。

天宇受売神はナマコに

「その口は答えぬ口か」

と言って、紐の付いた太刀でナマコの口を裂いてしまいました。

そこで、今のナマコの口は裂けていると言われているのです。

 

 

また、このように魚たちは皆、「仕える」と誓ったことから、

御世(天皇または王が在位している期間)ごとに、島の速贄(しまのはやにえ:志摩国~東海道、三重県東部から朝廷に献上する初物産物のこと)

が献上され、その時天皇は、天宇受売神の子孫である猿女君らにそれを賜うことになりました。