前回は、火遠理命(山幸彦)が綿津見の宮で娶った妻の豊玉毘売の出産と、その正体についてご紹介しました。
古事記の上巻は、この物語までであり、この後は中巻へと移ります。
中巻では、いよいよ初代神武天皇が、天下を治めるために東方を目指す「神武東征」のシーンが描かれることとなります。
東方を目指す伊波礼毘古(イワレビコ)の命
天津日高日子波限建鵜葺草萓不合命と玉依毘売の間に生まれた
神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレビコ)
は、長兄の五瀬(イツセ)の命に今後のことを相談しました。
「どの地に都を置けば、天下をやスラマニ治められるでしょう?
やはり東方をめざすべきだと思います」
と言うや、ただちに筑紫(九州北部)へ向かいました。
伊波礼毘古の命らの一行は、豊国(大分県)の宇沙(宇佐市)で
宇沙都比古・宇沙都比売
という土地の者からもてなしを受けました。
その後、筑紫の岡田の宮に1年滞在しました。
次に、阿岐の国(広島県)の多祁理の宮(たけちのみや)に7年滞在しました。
さらに、吉備国(岡山県)の高嶋の宮に8年滞在しました。
そこからさらに東に向かう途中、速吸門で亀の甲羅に乗って釣りをしながら、両袖をふりふりやってくる者と出会いました。
何者か尋ねたところ、国つ神と返事がありました。
その者は、あたりの潮路に詳しいうえに、お供として仕えることを承諾したので、伊波礼毘古の命は、棹(さお)を差し伸べて、その国つ神を自分たちの船に引き入れ、槁根津日子(さおねつひこ)という名を与えました。
この者は、大和の国造らの祖先です。
登美毘古との戦い
伊波礼毘古の命らの一行は、そこからさらに東へ進み、浪速の渡(なみはやのわたり)を経て、白肩の津(しらかたのつ)に船を着けました。
しかし、そこは登美能那智湏泥毘古(以下、登美毘古と記載)が軍を率いて待ち受けていました。
登美毘古が戦いを挑んできたので、伊波礼毘古の命も楯を取って船を下りました。
このため、その地を名づけて楯津と言うようになり、今は日下の蓼津(くさかのたでつ)と呼ばれています。
戦いの最中、五瀬の命が腕に登美毘古の放った矢を受け負傷します。
このとき、五瀬の命は痛みをこらえながらこう言いました。
「わたしは太陽の神の御子でありながら、太陽に向かって戦いを臨んだ。
それがよくなかった。だから賤しい奴に手傷を負わされてしまったのだ。
今からでも遅くはない。次は大きく迂回して、太陽を背に負いながら戦おう」
そこで、伊波礼毘古の命ら一行は、改めて太陽を背にするところから上陸を試みようと、海岸沿いに南へと進みました。
途中、五瀬の命が手から流れ出た血を洗い流したところを、血沼の海と言います。
一行は、そこからさらに進んで、紀の国(和歌山県)の男の水門(おのみなと:紀の川の河口)に辿り着きました。
五瀬の命は、
「賤しい奴に手傷を負わされて死ぬことになろうとは」
と雄たけびを最後に静かに息を引き取りました。
このため、その地を名付けて男の水門と呼ぶようになり、五瀬の命の陵墓は紀の国の竈山(かまどやま)にあります。